山田幸代のhappy対談

Happy対談は、プロラクロスプレイヤー山田幸代がアスリートとして大切にしていることを発信するプラットフォームです。スポーツ界で活躍されている方々にフォーカスし、生き方やHappy哲学について対談を行い、スポーツを通して世の中をどのようにHappyにするかをアスリートと共に考え、発信していきます。

Vol.1

オリックス・バッファローズで12年間投手として活躍を続け、2017年に米メジャーリーグ、アリゾナのダイヤモンドバックスに入団し投手として活躍中の平野佳寿選手と、ラクロス界の開拓者 「日本人として、オーストラリア代表に選出されて世界一を目指す」プロラクロプレイヤーの山田幸代。トップアスリートの二人は、京都産業大学の先輩と後輩の仲。オフシーズンで帰国した際に対談が実現しました。

Profile

山田 幸代 (やまだ さちよ)
プロラクロスプレイヤー

1982年8月18日生まれ。滋賀県出身。 日本初のプロラクロッサー。2007年9月にプロ宣言し、2008年か ら女子ラクロス界では世界トップクラスのオーストラリアリーグに 加入。2016年12月、念願のオーストラリア代表に選出され、 2017ワールドカップ、2017ワールドゲームズに出場。ワールドゲームズでは銅メダルを獲得。 選手として戦う一方、勉学にも励み、2016年に京都産業大学大学院を修了。2018より、西武文理大学専任講師。母校・京都産業大学の広報大使(2013年〜2017年)、2014年12月から、京都国際観光大使も務めている。

平野 佳寿(ひらの よしひさ)
メジャーリーガー

1984年 京都府 宇治市生まれ。1999年 鳥羽高校に入学。 2000年の高校野球 東海大相模戦で2番手として登板を果たす。 2002年 京都産業大学に入学、2年次からエースとして活躍し最 優秀選手賞、最優秀投手などに選出される。2005年 オリック ス・バッファローズに入団。2017年契約満了を機に米大リーグ挑戦を正式発表し、アリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約。2018年4勝3敗3S、防御率2.44でシーズン終了。

大きな夢へとつながる決断

山田:私は、京都産業大学時代に、平野さんが出ている野球の試合をよく観に行ってたんだけど、平野さんは大学時代からすごく活躍していて、その当時からスーパースターという印象があるんですよ。

平野:よくそういう風に言われるんですけど、実際に僕が活躍できたのは2年生からなんですよ。大学に入ってからプロを目指していたんですが、僕が思い描いていたことと現実が随分違っていたこともあって、それが態度に出ていたのか、2年生の春のリーグ戦の後に、選手全員の前で監督から叱責されたんです。その時に監督から言われたのは、「お前は控え選手の気持ちを考えたことがあるのか」と。その日を境に僕の気持ちや取り組み方が大きく変わったのは確かです。若気の至りで素直に受け入れられない部分もあったんですけど、先輩たちやエースが真面目に練習して結果を出しているのを見て、だんだんと監督の言うことが自分の中に落とし込まれてきて、その後やっと秋から主力で投げられるようになったんです。

山田:そうだったんですね。平野さんが投げると、きっと抑えてくれるはずだとワクワクして試合を観ていたことが今でも心にハッキリと残っ ています。ところで、アスリートとして歩む中で、過去を振り返ってこれは大きな決断だったと思うことは何ですか?

平野:野球をする中で決断はいろいろとあるんですが、一つ目の大きな決断は高校選びですね。最初は地元の高校に行こうと考えていたんだけど、最終的に卯瀧先生のいる鳥羽高校に進学できました。もし、地元の高校に通っていたら甲子園に出ることはなかったと思うし、野球の価値観が随分と違ったものになっていたと思います。そうは言っても高校時代はなかなか活躍できず苦しい時期を過ごしたんですが、卯瀧先生が僕の数年後を見越して育ててくれたので、今の自分がいると思っています。確か、山田さんはラクロスを始めたのは大学に入ってからでしたよね。山田さんがした大きな決断って何ですか?

山田:私の場合、高校時代にバスケットボールを3年間全力で頑張ったから、もうやり切ったという思いがあって大学では続けないと決めていたんですよ。最初、大学時代は花の女子大生をエンジョイしようと考えていたんだけど、いざやってみると、それまでずっと目標に向かって取り組む生活を送ってきたから、何もしない生活は退屈で仕方ないことに気づいたんです。そんな時に、同じゼミの友人から誘われてラクロスを始めたのが、ラクロスとの運命的な出会いになったわけです。
やっぱり私の大きな決断といえば、ラクロスにおいて世界トップであるオーストラリアでチャレンジするって決めた時かな。日本代表の選手としてW杯に出た時に、相手が強すぎて、今まで入っていたシュートが全く入らなくてボロ負けしたんですよ。その時に日本のレベルを思い知ったのがきっかけです。それから、日本 をもっと強くするために自分が世界のトップを経験する必要があると思って、2008年に強豪オーストラリアのチームに移籍することに決めたんです。そこから日本人としてオーストラリアの代表に選ばれてW杯に出てメダルを取ることを目標に掲げて、今に至るという感じですね。

平野:山田さんはオーストラリア代表になってW杯に出場したんですよね。

山田:2017年のW杯の時にオーストラリア代表に選ばれて出場したんだけど、残念ながらその時は4位でメダル獲得には至らなかったんです。でも、その翌月に行われたワールドゲームズでは銅メダルを獲れたので、それを含めて素晴らしい経験になりました。自ら決断して行動すると道は開かれるものですね。お互いこうやって自分がやると決めたフィールドで、チャレンジし続けられているというのは本当に幸せなことだな、と私は思うんですよ。ラクロスの場合、日本のラクロス人口が少ないのもあって関西選抜になるのも、日本代表になるのもフィードバックが早くて楽しくて仕方なかったんです。それに対して野球の場合は、野球人口がものすごく多いからプロに入れる人も、ましてや一年目から活躍できる人なんて、ほんの一握りですよね。平野さんがオリックスに入ってから、結果を出し続けられた要因は何だと思いますか?

平野:僕の場合、ドラフト1位で入れてもらったので最初の頃は、試合でよく使ってもらっていたにもかかわらず、先発で起用されていた時はあまり結果を出すことができなかったんですよ。でも、その時に当時の岡田監督の考えでリリーフに転向したことで、結果僕の野球人生がすごくいい方向に進みました。僕は本当に恵まれていて、プロに入る前も、入ってからも僕を育ててくれた人が道を開いてくれたと、いつもみんなに感謝してるんです。

時が満ちて向かった大舞台

山田:プロ野球選手にとってメジャリーグは憧れの場所だと思うのですが、平野さんはなぜ最初に話がきた時すぐに行かなかったんですか。また34歳でメジャーに行ってみて実際にはどうですか?

平野:迷いました。最初にメジャーの話が来た時は、子どもが生まれて家族が増えたり、オリックスの契約が残っていたりタイミング的にどうしても今じゃないと思って断念したんです。そんなこともあって正直なところ、一度断ったからアメリカ行きはもうないだろうと自分の中でフタをしていたんですよ。それが、2017年のシーズンに入って、WBCの後から再び熱心に声を掛けてくださって「ここで行かなければ先はない」と思い決断しました。年齢的には34歳で渡米したタイミングはベストだったと思っています。最初は期待半分、不安半分でしたよ。環境もガラッと変わりますからね。それに、日本でやってきたことが通用するのかも不安だったし。でも1年目を終えてから、日本でやってきたことが間違いではなかったと確信を持てました。山田さんがオーストラリアに行った時は、山田さんのようにラクロスで世界に挑戦する人は誰もいなかったんじゃないですか?苦労されたこともあったと思うんですが、実際にオーストラリアではどんな感じだったんですか?

山田:私の場合、オーストラリアはラクロスの強豪国だし単独で乗り込んだから、何の実績もない私にとっては戸惑いの連続でしたね。最初はコートの中で、どれだけ私がフリーでも「誰だ、おまえは?」みたいな感じでパスすら回してくれないし、目も合わせてくれなくて。けっこうキツくて精神的にまいりましたよ。

オーストラリアに行ってから、自分はこんなにシャイだったかなと思うほど積極性がなくなってしまって。
そんな時に母から、「出る杭は打たれるけど、出すぎた杭は打たれないから、出過ぎたらいいんよ」と声をかけてもらったのをきっかけに、世界で戦える体づくりを徹底的に始めたんです。それからやっと自分のプレーが見せられるようになってきて、その時に初めてメンバーから認められるようになったんです。それをきっかけに、お客さま扱いからチームの一員として、またライバルとして受け入れられた、そこがまさにスタート地点という感じでしたね。他にも監督からは言葉を覚えないと試合には出さないと言われていたのもあり、言葉の勉強など、プレーの他にも乗り越えなければならない壁の連続でした。最終的には、100人の中から念願だったオーストラリア代表18人の1人に選ばれたんですけど、実際にオーストラリアの代表になってしまうと、もう2度と日本代表には戻ることができなくなってしまうのですごく葛藤しましたよ。

平野:オーストラリアではいろいろと大変だったんですね。具体的にはどんな葛藤があったんですか?

山田:結局、私が迷ったのは、選手としての自分の目標は「世界の舞台で金メダルを獲ること」なんだけど、自分が世界レベルのスキルを身につけて日本代表として戦うのか、選手として世界のトップを経験して日本で将来指揮官として日本のチームをメダルに導くのか、どちらを選ぶべきかで葛藤してたんですよ。最終的には、オーストラリアの代表として出ることに決めたんですけどね。ところで、平野さんのアメリカでの今季の目標や今後やりたいことは?

平野:今季の目標は何と言っても優勝ですね!シャンパンファイトしたいし、優勝リングをもらえるように頑張りたいです。今はまだメジャーで1年しかプレーをしていないので、辞めた先のことよりも、まだまだできると信じて、とことんやれるところまでやるのが目標です。山田さんの目標は?

山田:ラクロスは2028年にロサンゼルスで行われるオリンピックの種目になると暫定的に決まってるんですけど、それがこの3年間の経過で確定するんですよね。そのためにも「ラクロス」という種目の知名度を世界的に上げなければならなくて。確定するためには、ラクロス参加国が75カ国必要なんだけど、今の段階ではまだ64カ国しか集まっていないんです。これからの10年で世界ラクロス協会は100カ国集めようと動いてるから、私も賛同して手伝っているところなんです。私は今でも現役でプレーをしているけど、10年後に開催されるオリンピックの時には、世界で経験したことを生かして日本代表の監督として、チームをメダルに導けたらいいなと考えています。

平野:その時は僕も応援に行きたいです!

険しい道の中にあるハッピーゾーン

山田:ところで、自分らしさや自分が幸せとか、面白いと感じるゾーンを表現した「ハッピーゾーン」という言葉をつくったんだけど、平野さんにとってのハッピーゾーンは何だと思いますか?

平野:そうですね、野球の試合で抑えられた時も嬉しいんですが、僕が抑えたことで応援してくれている人たちや後援会の人たちが喜んでくれることや、ファンの人たちがわざわざアメリカまで応援に来てくれた話を聞いたり、その様子を見かけたりした時に心から幸せを感じますね。よく「野球楽しい?」と聞かれるんですけど、正直なところ僕は、野球をやっていて楽しいと思ったことはないんですよ。後から出た結果で良かったとか、みんなが喜んでくれているのを見て、「また頑張ろう」「またやりたい」と思う、この繰り返しなんですよね。本当に僕は昔から失敗の上に成り立っていて、失敗を何度繰り返しても、何度打たれても、そのたびに立ち上がって前に進み続けてきたんです。だからこそ今、こうやってメジャーリーグでプレーできているのかな思います。失敗も含めてそれが僕のハッピーゾーンかな。

山田:失敗も含めてハッピーゾーンっていいですね!これって私もよく聞かれる質問で、ある意味究極の質問だと思うんですが、平野さんにとっての「野球」とは?

平野:僕の天職だと思っています。僕も逆に聞いてみたいんですが、山田さんにとってのラクロスとは?

山田:私はラクロスで生かしてもらっているし、自分の人生を充実させてくれるもの。楽しい時も苦しい時もひっくるめてラクロスは人生、まさに「ラクロス is my Life」ですね。では、最後に平野さんから将来野球選手になりたいと思っている人たちや、スポーツ選手を目指す人たちへメッセージをお願いします。

平野:僕は何度も言いますが、失敗からここまで来ました。ケガもしたし、打たれて心が折れそうになったことも数え切れないほどあります。誰もが失敗をしたくてするわけではないと思います。若い人たちはこれから、自分の思うような結果が出せなくて落ち込んだり、壁にぶち当たることが何度もあると思います。でも僕は、そういうことがあるからこそ上に行けるのだと思っています。
だから野球に限らず、若い人たちに伝えたいことと言えば、どんな時でも失敗を恐れずに、むしろ失敗をした方が強くなると思ってどんなことも諦めずに挑んでほしいと思います。

Message

今回、平野選手と対談ができて改めて思ったことがあります。彼は「感謝を忘れない人」だということ。周りの人と自分を比べるのではなく、自分自身を常に見つめ、一歩一歩着実に進んでいく人だと思いました。その一歩には重みがあり、彼一人の一歩だと感じているのではなく、周りにいるみんなや応援してくれている方々への感謝と共に歩み、その一歩がみんなの一歩になっています。人々の心に残る歴史を作っていく人たちには、さまざまな形があると思います。平野選手の場合は、彼と関わる周りの人たちの記憶に強く残り、その絆がどんどん大きくなり、彼の謙虚な心と行いで、彼の歴史が刻まれていく人なのではないかと思います。そんな平野選手をこれからもずっと応援し続けたいと思いました。久しぶりに平野選手にお会いしてすごくパワーをもらいました !よっちゃん!ありがとう!

山田 幸代


久しぶりに山田さんとお会いできて、本当にとても嬉しかったです。大学時代からそうですが、先輩としてアドバイスをもらったり、野球とラクロスという垣根を越えて刺激をもらったり、今でもこうやっていい関係を持てていることにとても感謝しています。プレイヤーとしても、ラクロスを広めていく活動もまだまだ大変だと思いますが、心から応援しています。山田さんは昔から周囲を明るくしてくれる人、たくさんの壁を乗り越えてきた人だと思います。2028年のオリンピックで、山田さん率いる最強の日本ラクロスチームが力を発揮し、良い結果を残せることを楽しみにしています。

平野 佳寿

地上最速球技といわれるラクロス。棒の先にネットを張ったスティックを操り、直径6cm、重さ150gの硬いゴムボールを奪い合う競技。特 に男子は激しく相手を叩き合い、接触も激しくその迫力に驚かされる。戦略的なパスワークを生かし、シュートにつなげるチームプレイはサッカーにも似ている。今、2028年のロサンゼルスオリンピックに向けたラクロス普及活動が広まり、 ラクロス人口が日本でも増えつつある。

ラクロスの歴史

ラクロスの始まりは、北 米の先 住民が神聖な儀式として部族間の争いを平和的に解決するもの、競技を通して若者の勇気や忍耐力を鍛えるものとして行わ れていた。19世紀にカナダで新しいラクロスのルールが作られ、その後カナダの国技に認定。男子の競技として広まった後、スコットランドで女子ラクロスが始 まり、ラクロスが世界的に広がっていった。

ルール紹介(2018年現在)

男子ラクロス

  • 1チーム10人構成
  • ヘルメッドなどの防具を着用
  • 試合時間15分×4(クウォーター制)
  • 接触プレイが可能

女子ラクロス

  • 1チーム10人構成
  • アイガードやマウスピースを着用
  • 試合時間15分×4(クウォーター制)
  • 接触プレイは不可
  • 試合開始や再開時はドローという方法をとる

2019年1月 京都タワーホテルにて
Supported by BIRTH 企画・編集:杉山大輔 ライター:セキグチ カナ 撮影:稲垣茜 

Privacy policy

2018 © Sachiyo Yamada.